廃業した2代目クリーニング屋の奮闘記 ⑼

細かいところは少しづつ変えてはいましたが、工場を本格的に変えて行くためには、僕が外交を回っていては中々前には進まないと思ったので、僕の代わりに外交を回ってくれる人を作らないといけないと思いました。父親には工場の仕事を覚え専念したいので外交してくれる人を探したいと伝えました。反対されるかな?と思いましたが了承してくれました。
その時は、叔父さんが自分のお客さんを持って独立をされていました。僕がはりまやに帰ってきたら、頃合いを見て独立しようと考えていたみたいです。仕上げにさらに負担がかかっていたので僕が工場に入る事に賛成してくれたと思います。
そうなると、月水金と3日回って火木土は回っていなかったので、毎日回るようなルートに変えないといけません。1コース週3回の訪問から2コース週3回の訪問に変えました。
要するに毎日回って平均になるよう組み替えました。トヨタ式で言う量の平準化に取り組みました。
回る時間、訪問件数、入荷点数、売上など毎日ができるだけ同じ様になるよう組み替えました。これは、この後も3年ごと位で見直すようにしていました。
それで、最初に採用した子は20代前半の真面目なおとなしい子でした。仕事もそつなく真面目にしてくれていました。1月から来てくれ繁忙期前には仕事も覚え繁忙期に突入しました。平準化したとはいえ繁忙期になると仕事終わるのが12時頃になってしまいます。「繁忙期は忙しくなるよ」と、言っていたんですが、一週間も続くともう仕事に来なくなってしまいました。
忙しいと言う感覚が僕とその子では大きく違っていたんでしょうね。僕が跡取りで家の仕事だから文句を言いながらでも続きましたが、今だったらブラックですよね。結局その年の繁忙期は僕が外交を回ることになりました。
来年度はこの経験を活かしてコミュニケーションをもっと取り、さらに作業改善もしなくてはなりません。

同時に工場では、ドライ機が古くなっていて買い換えを数年前から父親が検討していたみたいです。父親はパーク信者でパーク以外の選択肢はないみたいでした。ドライ機と同時に仕上機(パフ)の導入とレイアウト変更も生産性を上げるという名目で、機械屋さん主導で進んでいたみたいです。コンサルっぽいこともしている機械屋さんです。
バブル前、Yシャツは自店でアイロンで仕上げていましたが、バブルで仕事量が増えたので外注に出していました。今回一緒にYシャツボディも入れて自前でするという方向で考えていました。トータルで結構な設備投資です。
この話が進んでいる中で僕がトヨタ式に出会い、トヨタ式を導入したいとなって父親と僕の戦いが始まる訳です。方や大量生産方式、こちらは小ロット方式、時代は大量生産方式が主流でみんなその方向に進んでいます。早ければ良いという時代です。

知り合いのクリーニング屋さんから、
「なんでそんなチマチマ仕事するねん?」
と言われたこともあります。
それは、多分価値観が違うと思います。

しらんけど・・・

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