廃業した2代目クリーニング屋の奮闘記 ⑴
僕がトヨタ生産方式の考え方を取り入れクリーニングをしようと決めた理由は大きく分けると3つあります。
①不明品、紛失を無くしたかった。
②繁忙期の仕事が辛かった。
③家族が普通に生活出来る報酬が欲しかった。
僕が実家である「はりまやクリーニング」で仕事を始めたのは、26歳の時で結婚を機に跡を継ごうと決め帰ってきました。
バブルの影響が出始めていた頃です。
当時のはりまやは外交営業中心で営業していました。
ちょうど僕が帰った時、スーパーの横に始めて直営店を出した年でもありました。
当時の年商は2,500~3,000万位だと思います。
父、母、伯父さん、職人さん、パートさん2人、僕を入れて7人で外交と工場作業をしていました。
外交は父、伯父さん、職人さんで月、水、金と3日間回ります。
火、木、土に工場の作業をします。
父が回っていた外交を僕が引き継いで回る事になりました。
帰った当初は教えてもらう仕事を覚えることで精一杯でした。
その頃はまだ、繁忙期でも12時を回ることも無く仕事を終えることが出来ていました。
仕事に慣れてきた頃からバブルの影響で売上が勝手に上がって行き、店舗を含めた売上が倍の5千万を一気に超え5千5百万まで上がってしまいました。
売上が下がるのは本当に大変ですが、何の前触れもなく急に仕事量が倍以上になるのも大変なんです。
とにかく目の前の仕事をこなすことが精一杯です。繁忙期は徹夜で仕事をしたことが何度でもあります。その反動が紛失・不明品の山です。
繁忙期が終わる頃からその後始末に追われます。
その頃のお客さんは今よりまだ、やさしかったので救われる事があります。
それでも、十分な報酬を得られる事ができれば、まだ良かったのですが、給料は増えることも無く仕事がハードになるだけでした。
それが、三年位続いた時、将来もずっとこのまま続くのかと思うとやってられない気持ちで一杯になりました。
そういう経験をしてクリーニングの仕事に疑問を持つようになって行きました。
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